毎日トイレ掃除213|朝活141|運・鈍・根

【トイレ掃除】

運・鈍・根

『平澤興講話選集「生きる力」』より

鈍で根があれば、「運」でありますが。
運というやつは、これは「あれは運がいい」とか
「悪い」とか申しますが、
運というものはこちらから
計算のできないものだろうと思います。

向こうから自然にこちらに
向かってくるのが運であって、
こちらで計算をしてこういうふうに
なってくれたらいいというような
ものではなかろうと思います。

やるだけのことをやった、
その報酬として出てくるのが
運だろうと思うのです。

ですから、運というものは
望んでどうということではありません。

本当にやるべきことをやっておれば
運はまわってくると思います。

もっとも同じことをやったら
同じ運がまわってくるかと言うということは、
そうではないようであります。

どう申しますか、それこそ運でありまして、
運というものは仕事なりすべての面で
やるだけのことをやった人、徳を積んだ人、
そういうところに来るもんだと思うのであります。

いつかも申しましたが、
この徳という字は同時に
得という字と向こうの言葉としては
通じるものがあるんだそうであります。

それならば、
徳がまわってくればつまり運であります。
運がまわってきたことになるわけであります。
そういうものだろうと思います。

自分で計算はできないが、
しかしやるだけのことをやっておればいい。
しかし普通の人がやることをやっておれば
普通のものしかまわってこない、

これは数学的にもそうですね。

人の何倍かやっておれば、
人よりはちょっといいものがまわってくる。
そういうことだろうと思います。

運・鈍・根というような言葉は
昔から言っておりますが、
なかなか考えてみると意味があります。

特に鈍と、頭がよくても
才におぼれては駄目だということ、
そしてとにかく要領よく手間を
はぶいてやろうなんていうことでは駄目で、
やっぱり根が大事だと。

そうすれば自然に運もまわってくると。

こういうのが運・鈍・根だと思います。

言葉は簡単でありますが、
考えてみるとなかなかうまいことを
言ったもんだと思います。

暇な時にまた運・鈍・根、
あなた方の頭でも考えてください。

なかなか意味が深いことだと思います。

この文章を読んで、『徳を積む』という言葉が浮かんだ。
運は求めるものではない。
勝手に運ばれてくるものだ。
こちらの都合でどうこうできるものではない。
運のよさを待っているのではなく、今まさに自分ができることに目を向けていく。
自分ができること、それはすなわち『徳を積む』ということ。
このようにつながった。
そして、その『徳を積む』には、心の根っこの部分が大切だ。
心底、心の底から『徳を積む』生き方をしていくことだ。
改めて精進したい。

毎日トイレ掃除213日継続

さきほど、『徳を積む』と書いた。
その一つに、毎日のトイレ掃除があるのではないか。
別に、運のよさをのぞんでやっているわけではない。
ただ単に、トイレの便器を磨いているだけなのだ。
やりたくてやっている。
ただそれだけである。
やらなかったとして誰かに怒られるわけではない。
心の底からやりたくてやっている、のみである。
人生二度なし。
だからこそ、『徳を積む』生き方をしていきたいと改めて思う。

朝活141日継続

朝は5時半から散歩だったが、久しぶりに暑さを感じた。
気持ちがいい。
戻ってきたコーヒーを飲みながらパソコン業務を行った。
読みたい本がいつくもある。
生き方を磨いていくための手段として本がある。

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