「人望はいかにして得られるか」
新渡戸稲造の名著『武士道』より
抑えた感情を、
古の日本人はどこで吐き出したのか?厳しい試練に晒され、人間本来の弱さが
さらけ出されたとき。
日本人は、笑うことでそれに対処してきたのです。それについては笑いの哲人、
デモクリトスとも比較になりません。私たちにとって笑うことは、
あらゆる逆境に対して
心のバランスを保つための努力でした。それは哀しみや怒りに対し、
天秤の反対側に置いて釣り合わせる、
「おもり」のようなものだったのです。このように感情を抑えることが
強く求められてきましたから、
いにしえの日本人は、その安全弁として、
詩歌の創作を見出しました。十世紀の歌人、紀貫之は次のように書いています。
「日本でも中国でも、
歌は心に思うだけでは耐えられないときに、
つくられたものなのだ」たとえば我が子を失った一人の母親は、
その辛い心をまぎらわそうと、
子がトンボとりに出かけて様子を想像し、
次のような歌を詠みました。「とんぼつり 今日はどこまで、行ったやら」
これ以上、他の例を紹介するのはやめておきましょう。
どうしてかといえば、私たちの国の詩歌は、
作者が傷口から一滴一滴その血を絞り出し、
これを美しいビーズにして糸を通し、
最高傑作に仕上げたようなものなのです。その考えを外国語に翻訳していくことで、
真珠の宝石のような価値は
傷つけられてしまうような気がします。私はただ、我が国の人々の心のなかで生まれた作品が、
外国人の方にも正しいものさしで
測られるようになってほしいのです。えてして日本人の気質は冷淡だとか、
笑ったり落ち込んだり、
浮き沈みの激しいヒステリックな気質だなどと、
正気を疑われることもあります。そうでないことを、
私は少しでも理解していただきたいのです。日本人が苦痛に耐え、死を気にしないのは、
神経がにぶいからだとも指摘されます。実際に苦痛に耐え、
死を気にしないように見えますから、
その指摘はもっともかもしれません。ならば、どうして日本人は、
強い緊張に対して、神経がにぶくなったのでしょう?それは我が国の気候が、
アメリカなどと比べれば、
刺激的でないことも理由にあるかもしれません。あるいは我が国の天皇制が、
フランスなどの共和制と比べれば、
エキサイティングでないことも理由かもしれません。あるいが我が国の国民が、
イギリス人ほど熱心に、
社会をおもしろおかしく風刺した
カーライルの『衣裳哲学』を
読まないからかもしれません。個人的には、日本人はあまりにも興奮しやすく、
また敏感すぎるので、絶え間ない自制心を認識し、
鍛えていく必要性があったのだと信じています。しかし、どんなに説明を尽くしたとしても、
日本人が長年にわたって鍛えてきた
自制心を考慮しなければ、
どれも正しい説明とはいえないでしょう。自制心の訓練は、
たやすく「行き過ぎになる」ことがありました。行き過ぎた訓練は、
沸き上がってくる暖かい心を抑えてしまうこともあるし、
素直な天性の心を歪め、
偏屈で化け物じみた心を
生み出してしまうこともあります。また、頑固者や偽善者や冷血漢を
つくり出すこともあるのです。どんなに高尚な徳にも、マイナス面や、
まがい物はあります。私たちはそれぞれの徳のなかにある
ポジティブな特質をとらえ、
ポジティブな理想を追求しなくてはなりません。自制心とは、我が国の表現でいえば
「心の平静を保つこと」であり、
ギリシャの言葉を借りれば、
デモクリトスが最高の善と呼んだ
「エウテミア」の状態に到達することになります。さて、私たちが次に見ていくのは、
武士道における「自殺」と「仇討ち」の制度です。
とくに前者には、自制心がたどりついた
究極の形が表されています。
自制心。
一見、人生にとって必要不可欠な心であるように思う。
確かに大切な心だ。
自制心なくして、何かを成し遂げることは難しいだろう。
だが、この自制心も万全の心とは言えないようだ。
万全というよりも、この心だけあればいいというわけではないということか。
どんなに高尚な徳にもマイナス面がある。
こういった幅広く深い見方をしなければ、
境地にはたどり着かない。
日々徳を積む。
だが、日々徳を積んでいるからといって、
何もかも上手くいくわけではない。
日々徳を積んでいてもなお、そこにマイナス面があるのではないかといった見方ができるかが、真の徳への道なのか。
毎日トイレ掃除219日継続
トイレの便器も床もピカピカにした。
そういえば、これまでトレイの天井までは掃除していなかった。
そういった視点もあったのか。
219日目にして初めて盲点に気づいた。
朝活147日継続
朝散歩は心地よいリズムでできた。
家に戻りパソコン業務。
午前中はZoomセミナーだった。
思想の部分に触れるすばらしいセミナーだった。
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