毎日トイレ掃除248日継続
便器を磨くという行為について考える。
例えば、『トイレ掃除しておいて。』と言われたとする。
これは雑用か。
毎日トイレ掃除をして248日になる。
これがもしも『トイレ掃除しておいて。』と言われてやっているのだとしたら何か違いはあるのだろうか。
毎日トイレ掃除をしているという事実は変わらない。
『トイレ掃除しておいて。』と毎日言われているのか、言われていないのかの違いだけである。
事実が変わらないのだから、別に変わらないだろうと考えることもできる。
本当にそうか。
うん、確かに事実は変わらないのである。
全く同じかと言われたらどうか。
うん、全く同じではないだろう。
『トイレ掃除しておいて。』と言われて毎日トイレ掃除をやっていたのだとしたら、掃除の質はどうだろうか。
取りあえずやっておけばいいレベルで済ますのではないか。
だって、トイレ掃除をやったという事実のみがもっとも大事なのだから。
だとしたら、トイレ掃除の事実も、微細な面まで見取れば、同じとは言えないだろう。
しかし、『トイレ掃除しておいて。』と言われてやっていた行為が、いつしか自発的な行為に進化する場合だってあるのではないだろうか。
外発的動機付けから内発的動機付けに変化する瞬間があるのではないか。
だとするならば、たとえ最初は言われてやっていたのだとしても、毎日続けることによって成長の岐路が訪れる瞬間がやってくるのだとも言える。
そうなれば、『あぁ、毎日トイレ掃除をするように言われてきたおかげで今の自分がある。』のだと、感謝の言葉を言う時がやってくる道もあると考えられる。
トイレ掃除、深い。
たかがトイレ掃除、されどトイレ掃除。
トイレ掃除と出会えた2021年。
ありがとう。
朝活176日継続
長袖での朝散歩。
もう半袖では寒いのだ。
散歩後のスクワットも質が上がってきた。
そして朝のマインドフルネス。
今日も生かされた。
ありがたい。
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