私が俳句と出合ったのは、
中学校の国語教師になった年でした。
たまたま懇親会の係になった時に、
懇親会に5分間ほど遅れてくる先生がいて、
乾杯までの間を持たせるために、
番号ではなく俳句によって座席を決める作戦を
思いついたのが最初です。
もちろん、私に俳句の心得があったわけではありません。
しかし、即興で作句したこの時の経験は、
俳句は難しい、教養がいるといった概念を壊し、
勝手に高く設定したハードルを下げる
大きなきっかけともなりました。
「俳句は面白い、性に合う」と思った私は、
それ以来、自分なりにこっそりと
嗜むようになったのです。
愛媛県南部にある海辺の町の小さな本屋で、
黒田杏子先生の句集を偶然手にしたのはその頃です。
何気なく読み進めるうちに
「この俳人はすごい。弟子になろう」とすぐに決めました。
弟子といっても東京まで訪ねていくわけではありません。
先生が選者をされている俳句誌の購読者となって
投句をするようになりました。
この投句を通して俳句の面白さに
いつの間にか惹かれていったように思います。
大好きだった教師を
どうしても辞めなくてはいけない状況に陥った時、
私は自分を納得させるために
「俳人になる」と啖呵を切りました。
俳句だけで生計を立てる決心をしたのは、
その後、シングルマザーになった時でした。
とは言え、二人の子供たちを気にかけてくださったのでしょう、
元同僚や先輩の先生方から
国語の講師の仕事を紹介されることもありましたが、
啖呵を切った以上、信念を崩すのがただ悔しい一心で
せっかくの話を断り続けました。
しかもシングルマザーとなれば、
状況はより厳しくなります。
俳句の仕事など簡単に舞い込んでくるものではありません。
おまけに、その頃の松山は保守の鉄板のような土地柄で
「若い女性がペラペラと語りながら俳句を飯の種にしている」
という冷たい空気もありました。
私は「俳句で食べていく以上、
世間様のお役に立つ仕事でなくては通用しない」と考えを変え、
それがその後の種まきへと繋がっていったのです。
〔中略〕
私たち俳句を詠む人間にとって吟行は日常の一部です。
仲間と一緒のピクニックなどはもちろんですが、
例えばタクシーに乗っている時もご飯をつくっている時も、
その心持ちさえあればすべてが吟行です。
目や耳など五感から入ってくる情報で
アンテナに触れるものがあれば、
すぐに掬い取って句帳にメモし、
その五感を頭の中で変換し文字に変えていきます。
* * *
昔のことですが、
吟行をしながら頭の中で言葉をこねくり回していて
ウンザリしたことがありました。
その時、墓石の隙間に生えるスミレがふと目に止まり、
瞬間、ハッとしました。
自分の脳味噌から出てくる言葉は自分以下のものでしかない、
スミレや石、風、空のほうが私の灰色の脳細胞よりも、
よっぽど新鮮な情報を持っていることを教えられたのです。
五感を働かせることで、
そんな体験をすることも少なくありません。
俳人の世界ではよく
「生憎という言葉はない」
と言われます。
「きょうは生憎の雨で桜を見ることができない」。
これは一般人の感覚ですが、
俳人たちは「これで雨の桜の句を詠める」と考えます。
雲に隠れて仲秋の名月が見えない時には「無月を楽しむ」、
雨が降ったら「雨月を楽しむ」と捉えます。
これは日本人ならではの精神であり、
俳人の心根にあるものなのかもしれません。
(本記事は月刊『致知』2018年12月号
特集「古典力入門」から記事の一部を抜粋・編集したものです)
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