二年前の六月、心臓の手術をした。
ASD(心房中隔欠損症)の手術である。
手術中数時間、自分の心臓を止めて、
人工の心臓で血液を送る。
百%生きて帰れる保証はない。
手術は成功して、いま、ここにいる。
術後の衰弱した体をベッドに横たえながら
思ったことがある。
一つは、長い休み、本を読めることを楽しみに
たくさんの本を持っていったが、
一冊の本も読むことはできなかった。
読書するというのは
ものすごくエネルギーのいることであり、
衰弱した体で活字をたどるのは不可能だと、
その時、初めて知った。
二つ目は、人間は誰でも、
その生涯を通して一篇の詩を書くために
生きているのではないか、ということである。
理屈などない。
ふと、そう思ったのである。
人間は生涯を通して一篇の詩を
書くために生きている。
逆にいえば、人間は一篇の詩となるような
人生を生きなければならない。
死生の淵に立った時の実感である。
安岡正篤氏がよくされた話がある。
戦場で第一線から遠ざかった場所では
人はつまらない雑誌か小説を読んでいるが、
だんだん戦線に近づいてくると、
そういう本はバカらしくて読めなくなる。
真剣に精神的な書物を読むようになる。
本当に生命に響くものを求めるようになる。
「つまり、人間は真剣になると、
くだらないもの、浅はかなものは嫌になるのです。
本当に命のこもった尊い本でなければ
身にこたえない」
人がその「人間の詩」をうたい始める事情も、
このことと無縁ではない。
日常生活のあわただしさに翻弄されている中で、
詩は生まれない。
深い人生の喜び、悲しみ、
喜怒哀楽のたぎった時に、
土中にある種が芽をふくように、
詩は心の底から生まれてくるのである。
この二十数年、『致知』のインタビューを通して、
感じたことがある。
それは、
「人生で真剣勝負した人の言葉は
詩人の言葉のように光る」
ということである。
人生で真剣勝負をした人の言葉は、
その人が詩人でなくとも、その真剣な人生体験に
深く根ざした言葉は詩人の言葉のように光り、
人々の心を打つのである。
人はその人生を通じて、
さまざまな詩をうたっているといった。
あなたはあなたの人生を通じて、
どういう詩をうたっているのだろうか。
また、どういう詩をうたいたいのだろうか。
たった一人の、たった一度の人生
——それにふさわしい面目ある詩を
書きたいものである。
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